ホウキノクニカラ

47.鳥取県三朝町山田がヤマタノオロチ伝説の舞台であった。http://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201308260000/

 

鳥取県三朝町におけるたたら製鉄について

鉄を含む地層は中国山地一円に広がっており、鳥取県の東部・中部でも鉄は生産でき、三朝町を含む鳥取県中部でも、かつては盛んに製鉄が行われていました。

 

三朝町教育委員会が1981(昭和56)年に刊行した『三朝のたたら』によれば、町内には204ものたたら遺跡があり、その約半分は、穴鴨のある竹田地域に所在しています。

 

記録に残っている資料より

1407年 矢送村流域の長講堂領(皇室領)である矢送荘が年貢として鉄一万挺を納める(関金町年表)。

 

(16世紀) 関金町大河原でたたら製鉄が行われる。

1573~92年 安田家(三朝町穴鴨)、この頃より鉄山経営を行う(同家文書)。

 

1741年 湯関村(関金町宿)の平兵衛が泉谷鉄山の経営を認められる(在方諸事控)。

1781年 大谷(三朝町)小峠鉄山を経営した日野郡宮市の下原権右衛門(重仲の父)、この地で死去する。

 

1788年 石原氏(三朝町木地山)、萩より来て鉄山を経営する(三朝のたたら)。

1845 年 久米郡円谷村、下田中、田内ほか四ケ村(現倉吉市・天神川下流域)は、河村郡田代、柏、大谷三村(現三朝町・天神川上流域)の鉄穴流しの差し止めを嘆 願する(山枡家文書)。【たたら製鉄に用いる砂鉄は、山を崩して、その土砂を水に流し、比重の重い砂鉄を沈殿させる「かんな流し」という手法で採取されま す。したがって、濁水によって人、牛、馬の飲み水がなくなり、稲作にも悪影響がでる。】

 

 

私見

延喜式(927年)によると、伯耆には課せられた調のなかに鍬と鉄があげられている。927年以前より鉄が採れていたことになる。

 

三朝町の人形峠の近くの西の山である田代、大谷、柏には鉄山があり、古くからたたら製鉄が行われていた。地理的には蒜山から中和村に行き、三朝町の穴鴨に降りる途中(下西谷)を東に上がっていけばある集落である。

八 俣大蛇伝説の原型は、製鉄を営んでいたその地の豪族が地元の娘を略奪して結婚した略奪婚だったのではないかと思います。もともとこの地に伝承があったの を、脚色して古事記に記載されているような物語にしたのは天孫族の時代であり、大呂という地名などの舞台設定を出雲国に作ったのは藤原氏である。この伝説 はたたら製鉄と関係があるという学説が多いので、製鉄技術さえ持っていれば、古代でもこの地にあった鉄山の鉄を採掘し、たたら製鉄が行われていた可能性が ある。したがって、この地に八俣大蛇伝説の原型があった可能性を否定できない。

「伯耆国」はもと「母来国」と呼ばれていたと伯耆国風土記の残欠にある。母来とは櫛稲田姫が「母来ませ」と叫んだところから名づけられたそうである。「ははき」が訛って「ほうき」になった。  

ス サノオが蒜山高原(川上村)より関金町に降りてきたのか、蒜山高原(中和村)より三朝町に降りてきたのかは解らないが、三朝町の坂本神社に櫛稲田姫の両親 が祀られていることと、〇〇ぼうき(母来ませと櫛稲田姫が叫んだところ)という地名が三朝町側に三ヶ所(助谷・大瀬・大原)あることよりスサノオは関金町 ではなく三朝町に降りてきたと思われる。〇〇ぼうき(母来ませと櫛稲田姫が叫んだところ)といわれるところは、いずれも山と川の間が狭く、通るのに不便で あったと思われるところである。

大瀬の隣の山側に山田という集落がありヤマダと読むが、同じ東伯郡の琴浦町山田ではこれをヤマタと読む。何もない山間の集落の琴浦町山田のヤマタという読みが本当の読みだと思われる。東伯郡三朝町でも当時はヤマタと読んでいたが、藤原氏がヤマダという読み方に変更させたのだろう。三朝町の山田集落は坂本集落(神社は足名椎命、手名椎命を祀る)と大瀬ほうき(櫛稲田姫が母来ませと叫んだところ)との間にある。全国旅館百選に選ばれた三旅館があり、温泉病院、大学病院がある。

ヤマタノオロチを退治してからスサノオは歩いて1時間30分ほど下流の打吹山周辺(倉吉市中心部)に八重垣を造って櫛稲田姫と住んだ。 

ヤマタノオロチが持っていた草薙の剣と秦の始皇帝陵から見つかった剣(紀元前二百二十年頃の剣であるが今でも切れるそうである)とは関係があるのではない かと思っています。ヤマタノオロチとされた豪族は、秦で造られた剣を持って、対馬海流に乗って海流の弱まる鳥取県中部に漂着したのではないかと思われる。

古事記にはスサノオが根堅州國に住んでいることが書かれています。

少し高いところから眺めると木の根が走っているように川が流れていたのだと思います。

根堅州國は「堅」の字が入っていますから、川の間にできた堅くなったところでしょう。

倉吉周辺の川です。まるで木の根のようです。中国地方の川の中で一番木の根に似ているのは鳥取県の天神川である。

倉吉中心部に洲がありそれが堅くなっていた。葦原中津国を見ればわかるように、当時の国とはあの程度の広さであったことを考えると、根堅洲国も現在の倉吉 市の中心部であったろうと思われる。スサノオは海原を治めるように命じられたが、当時は倉吉市の中心部近く(住吉町)まで海が来ていたという(住吉神社前 の案内板より)。

 

39.根堅洲国について
http://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201308130000/